ショウペンハウエル

Shigure-sou2007-10-29


私が好きな作家の一人にショウペンハウエルという人物がいる。
彼は言う「智は整理されてこそ、真の智である」。膨大な情報を持っていて、多くを知っていようとも、整理し、理解されていない智は、本来の価値を持ち得ないのである。

なぜ、今回ショウペンハウエルなんて人物、普通の人は名前さえ聞かない人物だろう。いや聞いたことは、見たことはあるのかもしれない。しかし、頭の片隅に残している人は少ないだろう。
けれど、私が高校生のときに出会ったこの作家は、哲学者は、今になって私の中で、日増しに大きくなっていっている。高校の時に、彼(ショウペンハウエル)の作品を読んだ。全く解からなかった。いや、たぶん今でも彼が作品で語ろうとしていることの全ては理解し切れてはいないだろう。それでも良いと思う。哲学者が語る全てを「壱」から「拾」まで理解することは土台無理な話なのだ。しかし、一部を理解し、自分の支えにすることは出来る。今、私は彼の「真の智、整理された智」について解かって来たような気がする。言葉としての理解は簡単だ。しかし、それを理解し、実践することはとても難しいのだ。現実社会において、本当に整理された智をもって動ける人物は少ない。
いま再びショウペンハウエルを読み返す、今、私は自身の軌跡を振り返って見るという作業をしている、小さな挫折は沢山あった、私は見てみぬ振りをすることでそれらをやり過して来た。それが、今、爆発した。小さな亀裂が、重なりあり、結びつき、大きな亀裂となって私の自我を崩壊させようとしている。

私は不安定な何時崩れ去るのか分らない砂地の上にいるような感覚に包まれている。

私はおもう。

考えねばならぬ、沈思し、さらに沈思し、表出しなければならぬ。自らが獲得してきたと思った事を、智を整理しなければ先へ進めぬ時期へ来たようだ。まだ若い、まだ若いと言い先延ばしして来た、己の「無知」を知り、「無知」を学び、「好奇心」という智を持って一歩を歩もう。自らの血を流し、地を固めよう。それは、いづれ、私の「自信」へとなるだろう。声を張り上げ、高らかに詠うだろう。

「我此処に産声上げる赤子の如く、「無智」をもって「智」に挑まん」

考え抜いて導き出し、自ら獲得した真実のみが価値ある「智」となり得るのである。そして、それこそが私を、君を、新しい世界へと導く架け橋となるだろう。
      我、思うにこれを語る。